神という概念

人は誰しも永らく生きていると、死にたくなるような体験を1度ぐらいは経験すると思います。

私は、そう言った体験を幾度と経験するうちに、「この世に神も仏もあるものか?!」という心境にまで陥りました。

そして、「それならば、今までの自分の中にある神という概念を一度壊し、自分用に最適化された神というものを再構築してみよう。」と思うようになりました。

そして、ある仮説にたどり着きました。

この仮説は、あくまで論理的な考察によるもので科学的な根拠はありませんが、その仮説に至るプロセスを記述しようと思います。

 

まず、私の父方の実家の家業が葬儀屋という環境で育ち、幼少の頃から普通の人よりも寺社仏閣や人の生死に触れる機会が多かったという背景があります。

そして、そんな背景の中、住職の話を聞くうちに仏教というものに関心を抱くようになりました。

そして、母方の祖母が信仰していた新興宗教(立正佼成会)の幹部教育を受ける機会があり、そこで本格的に仏教を学問として学びました。

学問として学んだと言うのは、あくまで宗教には全く関心がなく、仏教で説かれている教えと言うものを学術的に学びたかった理由からです。

世界三大宗教の開祖と言われるキリスト、ムハンマド、釈迦の三者はもともと人間であり、人智を超えた能力を民衆に示すことで神格化され、現代では神=キリストみたいな存在として誤解されていますが、あくまで神の代弁者であり、ややもすれば現代医学で解明されている統合失調症の症状と酷似しています。

そして、神と仏は厳密に言うと違うものではありますが、日本における神道の八百万の神の概念も、民衆の生活の中で人智を超えた現象を神という存在に置き換え、人間の力では解明できない事象を神の力ということにして納得するための対象であり、祟りなど(現代における自然災害等)を恐れ、敬い崇めていく中で信仰の対象となったのではないかと思います。

そうやって神というイメージだけが独り歩きして、タブーの如くそこに触れて疑問を抱くことを忘れ、全知全能の存在であるかのように解釈しているのではないかと思います。

なので、宗教や神といった存在への私の考え方は現在でも、あくまで科学では解明できない事象を神という概念に置き換え納得するための対象であり、それを信仰するのが宗教という認識で、いずれ科学的に解明できるのではないか?と思っています。

そして、それまでは無神論者として中立的な立場に身を置こうと考えています。

 

話は仮説に戻りますが、幼少の頃に住職から聞いた「人は亡くなると仏になる。」=「成仏」(成る←仏に)という言葉の成り立ちと、葬儀屋で経験した人が亡くなる様を照らし合わせ考察しました。

生前、どんな人格の人でも死の直前には改心して亡くなっていく様を多く見るうち、ひょっとしたら人の心の内に神が存在するのではないか?という疑問を抱くようになり、仏教を本格的に学びたいと思うようになりました。

そして、仏教を学問として学び、「相手の仏性を拝み出す。」という言葉を知り、ひとつの仮説に至りました。

昔から、「お天道様が見ている。」とか「罰があたる。」という考え方がありますが、あれは人の罪悪感に起因するものだと思います。

人は誰しもサイコパスのような人格障害がない限り、罪悪感という感情を持っています。

そして、自らの行いと照らし合わせ、罪悪感が勝手に罪と罰の因果関係を連想させているに過ぎないと思います。

更に言及すれば、人の目前でなければ、多少の悪行(ゴミのポイ捨てや、交通量の少ない道での軽い信号無視)を行える者と、そうでない者の間に何の違いがあるのか考えると(私は後者)、良心の違いと言えるのではないかと思います。

そう考えると、人は誰も見ていなくても意識的・無意識的を問わず自分自身の良心が許すか許さないかという判断で行動し、何か悪いことが起こると罪悪感が因果関係を勝手に連想させて罰だと捉えるような心理作用が働いているのではないでしょうか。

逆に言えば、自らの行いの罪と罰の間に何の因果関係が無いにも関わらず、罪悪感が罰だと捉えさせていると言えます。

罪悪感は、人の良心(善意識と言い換えても良いと思います)が引き起こす心理作用です。

という事は、罰は神のような外的要因によって引き起こされるものではなく、人が最初から持ち合わせている善意識(内的要因)によって引き起こされる、要は捉え方の問題だと言い替えられます。

ならば、自分自身にとって都合の悪いこと(罰)も、捉え方次第で好適と考える事も可能です。

そうなると、目の前で起こる事象には何の意味もなく単なる物理現象で、その善悪を判断するのは人の心(意識)ということになります。

つまり、身の回りの事は全て自分自身の意識によって判断され、取捨選択されているということになります。

これを突き詰めると、身の周りの世界は、自分自身の意識が構築している、つまり、自分が見ている世界の創造主(神)は自身の意識と言えます。

今までの価値観では、1つの世界という広大なエリアに数十億の人間がひしめき合っているといったイメージでしたが、人の意識=神というこの仮説を当てはめて考えると、数十億という人間の意識(神)が創造した世界がこの世界を構築している、つまり、数十億という世界の集合体が1つの世界として捉えられているだけで、世界は無限に存在するのではないか?

そして、神も無限に存在するのではないか?という結論に至りました。

言葉は違えど、これが俗に言うハイヤーセルフとか宇宙意識と呼ばれるものではないだろうかと思います。